2 | 東西文化の交差点 Crossroads of China and Portugal ①關閘 → ②三角花園 → ③蓮峰廟 → ④林則徐記念館 → ⑤OXウェアハウス(牛房倉庫) → ⑥観音古廟と城隍廟 → ⑦モンハの砦 【所要時間:約2時間30分】 |
コース1では、聖ポール天主堂跡から北上して、中国寺院や教会などをめぐり歩いたが、ここでは、マカオ半島最北端に位置する關閘(クワンツァ)と呼ばれる関門から南に向かって歩く。このエリアは、中国の下町風情が濃厚な庶民的なところだ。
その最北端に、ちょっぴり異質とも思える洋風の城門が建っている。不思議な面持ちで写真を撮り続けていると、「それはね、ポルトガルが建てたもの。中国が作った元の関門は、もっと南にあったんだよ」と、通勤客と思しきおじさんが教えてくれた。パリの凱旋門を彷彿とさせる洋風の関門はポルトガルが1871年に建てたもので、それ以前は、ここから南へ500mほどの三角花園近くにあったというのだ。それは16世紀中頃、清朝がマカオに住むポルトガル人を監視するために設けたもの。もちろん、中国風の建物であったことはいうまでもない。
ちなみに、関門の背後には、今はモダンなアーチを連ねた建物がそびえているが、これは2004年に完成した出入境管理ビル。中国からやってくる観光客だけでなく、家賃が高騰するマカオを避けて中国本土へと移り住み、そこからこのゲートをたどってマカオ市内へと向かう通勤客が行き交うのだ。しかし、「朝夕の込み具合は半端じゃないよ…」と、決して楽ではない通勤事情を話してくれた。
アヘン撲滅に尽力した林則徐の足跡
三角花園の近くにあるのが蓮峯廟。1592年に建てられたマカオ3大寺院のひとつで、ポルトガルのマカオ政庁と交渉するためにやってきた林則徐が滞在したところでもある。ここには、アヘン撲滅に尽力した林則徐の記念館もある。
林則徐は、広東においてアヘンを取り締まった際、1500tものアヘンを取り上げて、大衆の面前で処分したという硬骨漢である。しかしその奮闘も空しく、イギリス軍との間でアヘン戦争へと発展してしまったことは無念だったに違いない。
門前の花壇の中に亜婆石という大きな石が置かれているが、これはポルトガル人のマカオ総督アマラルがポルトガルの領有権を示すために置いたもの。皮肉なことに、アマラルはこのすぐ近くを通りがかった時、ポルトガルに反発した中国人に襲撃されて死亡している。
現代アートや観光業など地元若者の活躍を垣間見る
ここからは右手にドッグレース場を眺めながら、大通りを300mほど南下。マカオのアーティストグループ「婆仔屋芸術空間(ヤンツァイゴツゴンガイソッポンガン)」が運営するギャラリー、OXウェアハウス(牛房倉庫)があるので訪ねたい。絵画や彫刻、ポスターデザインなどさまざまなアートが見られる。
そこから西へ行ったところが観音古廟。1620年代に建立されたという由緒ある廟である。隣にあるのが城隍廟(フェンウォーンミュウ)。こちらは土地の守り神で、福をもたらすといわれる城隍菩薩が祀られている。そのすぐ裏にそびえるのが、モンハの砦だ。こちらは前述のモンテの丘と違って、ポルトガル軍の2つの大砲の砲身が向く先は北側。つまり中国本土へと向いている。1841年の第一次アヘン戦争の後、中国からの攻撃に備えて築かれた砦である。1960年代に閉鎖されて以降は公園となって、近くの住民たちの憩いの場所として親しまれている。ちなみに、モンハに常駐する兵士たちの宿舎として建てられたポウサダ・デ・モンハは、観光関連のスタッフを養成する大学兼ホテルに改装されているので、宿泊することもできる。希望に胸を膨らませた若者たちの初々しい接客ぶりを見ながらの滞在は、何とも心地よいものである。