古廟と教会を訪ねて
The Marriage of East and West in St. Anthony’s Parish


1 芸術と文化を求めて A Legacy of Arts and Culture
①聖ポール天主堂跡②旧城壁③ナーチャ廟④ナーチャ展示館⑤恋愛巷⑥マカオ・ホー一族協会⑦永福園⑧聖アントニオ教会⑨カモエンス公園⑩カーザ庭園⑪プロテスタント墓地⑫三巴門土地廟⑬包公廟及び醫靈廟⑭鏡湖醫院内孫文(孫中山)像⑮消防博物館⑯蓮渓廟⑰新橋花園⑱三盞燈⑲葉挺邸
【所要時間:約2時間30分】
左:聖アントニオ教会前の巨大な十字架。中:やさしい雰囲気が漂う聖アントニオ教会。右:ファサードが顔をのぞかせる恋愛巷。

左:聖アントニオ教会前の巨大な十字架。中:やさしい雰囲気が漂う聖アントニオ教会。右:ファサードが顔をのぞかせる恋愛巷。

「ハ~イ!皆さ~ん、あそこ見てくださ~い!」

マカオ随 一 の観光地、聖ポール天主堂跡に残されたファサード(前壁)を前にして、ガイドの女性が日本人団体客に向かって声を張り上げていた。

「聖母マリアさんが7つ頭の龍を踏みつけていますよね。あれ、徳川家康さんだそうですよ。真ん中の顔、ちょっと似てるでしょ!」

そう畳みかけられて、つい「そういえば…」なんて、頷いてしまった。確かに、家康は1612年にキリスト教禁教令を布告し、各地の教会を破壊しただけでなく、信者の多くをマカオやマニラなどに追放している。祖国を追われた人たちにとって、家康の顔が悪魔に見えたとしても無理はない。

聖ポール天主堂跡をスタート地点として、点在する古廟と教会を訪ねるマカオウォーキング旅。その第 一 歩から、いきなり日本との濃厚な繋がりを見せつけられて、考えさせられてしまった。

日本人キリスト教徒も天主堂再建に協力

ちなみに、聖ポール天主堂が最初に建てられたのは1582年のこと。当時、アジア最大のカトリック教会であったが、1601年の火災で焼失。1602年から30年余の歳月をかけて建て直されている。この再建には日本を追われた信者たちも加わり、冒頭の7つの頭を持つ龍のほか、ファサード中央の聖母像をとり囲む菊の花紋も日本人が手がけたのではないかと見られている。しかし、1835年に再び火災にみまわれ、ファサードだけが残ったのだ。

毎年6月には聖アントニオ祭が催される

毎年6月には聖アントニオ祭が催される

1634年にマカオに渡航したイギリス人旅行者ピーター・マンディが記した旅行記によると、当時の聖ポール天主堂の屋根には、日本から送られてきた木で作った浮き彫りがあり、金箔の他、青や赤の塗料で塗り込められて実に色鮮やかであったという。その細工も、実は日本人技術者の手によって施された可能性が高いのだ。また、日本人は武芸の達人であると思われていたため、門番として駆り出されることも多かったようだ。このように当時の日本人の動向にまで思いを馳せるのが、同地を再訪する際の新たな楽しみ方である。

ちなみに昔はこのファサード裏手の階段から、幸せを願って上段の窓めがけてコインを投げ入れる人が多かったが、「世界遺産にコインぶつけるの、良くないでしょ。危ないしね」ということで、ついには階段に上ること自体禁止されてしまったのだ。幸せを祈るためとはいえ、マナーはやはり、守りたいものである。

ともあれ、先に歩を進めよう。ファサード正面へ戻って右下を見下ろすと、土壁で作った古びた城壁が見えてくる。「これも世界遺産です」といわれても、にわかには信じ難い質素な造りである。でも、これが16~17世紀にかけてポルトガル人が築いた旧城壁の 一 部と聞けば、なるほどと頷かざるを得ない。ファサードの向こうに、こんもりとしたモンテの丘が、その重要性を物語っているのだ。

1622年、ここでポルトガル軍が攻め入るオランダ軍との間で激しい攻防戦を繰り広げた。この時、砦に据えられた大砲から放った1弾がオランダの弾薬庫を直撃。その甲斐あってオランダ軍を追い払うことができたが、防御の必要性を痛感したポルトガル軍は、この後マカオ中に城壁を張りめぐらせたのだ。この旧城壁は、いわば歴史の証人である。歴史の流れを汲み取れば、自ずとその歴史的価値に気付かされるのだ。

上段左から:カーザ庭園の入口。奥には、かつての地元の富豪マヌエル・ペレイラ氏の別荘だったコロニアル様式の屋敷がある。/ 200年にわたってマカオを見守ってきた道教の寺院、蓮溪廟。/ 真っ赤に塗られた三巴門土地廟 下段左から:消防博物館の歴代の消防車。/ ステンドグラスに十字架と聖書が描かれたモリソン教会内部。/プロテスタント墓地にあるモリソン教会。/ 孫文が勤めていた鏡湖醫院。

上段左から:カーザ庭園の入口。奥には、かつての地元の富豪マヌエル・ペレイラ氏の別荘だったコロニアル様式の屋敷がある。/ 200年にわたってマカオを見守ってきた道教の寺院、蓮溪廟。/ 真っ赤に塗られた三巴門土地廟
下段左から:消防博物館の歴代の消防車。/ ステンドグラスに十字架と聖書が描かれたモリソン教会内部。/プロテスタント墓地にあるモリソン教会。/ 孫文が勤めていた鏡湖醫院。

 

ワンパク坊主・ナーチャに無病息災を祈る

城壁の前にある小さな廟も、これまた世界遺産。こちらは、ナーチャという名の男の子の神様が祀られている。『西遊記』にも登場する神様で、孫悟空相手に大暴れした。ワンパク坊主とはいえ疫病退治の神様でもあるところから、人々の信仰が篤いのだ。

城門をくぐったところに、ナーチャにまつわる展示コーナーがあり、日本語の解説もあるので目を通しておきたい。

ここからは、ナーチャ廟前の大三巴右街(ダイサンパアウガイ)をたどって、恋愛巷(リュンゴイホン、恋愛通り)と呼ばれる小径へ向かおう。パステルカラーのコロニアルな洋館が立ち並ぶお洒落な小径である。階段を下りて振り返れば、ファサードが名残惜しそうに顔をのぞかせている。わずか50m余りの小径とはいえ、この名前と雰囲気に惹かれてか、記念写真を撮るカップルも多い。

ポルトガルの詩人・カモンエスゆかりの公園は市民の憩いの場

ここから骨董品店が立ち並ぶ大三巴右街(ダイサンパアウガイ)へ出れば、マカオ・ホー一族協会(現在修復中)もすぐ。カジノ王として知られるスタンレー・ホーをはじめとする何(ホー) 一 族が集う宗廟でもある。その斜め向かいにある永福園は、昔の中国人の暮らしぶりを推し量ることのできる貴重な建物。さらに北へ進めば、マカオのイエズス会最大の拠点であった聖アントニオ教会へとたどり着く。ポルトガルの軍神・聖アントニオを祀る教会だ。教会前にある、台座に「1638」と記された石造りの巨大な十字架が印象的。

教会のすぐ北にあるのがカモンエス広場で、奥に広大なカモンエス公園が広がっている。ここには、ポルトガルの詩人、ルイス・デ・カモンエスの銅像も。バスコ・ダ・ガマの航海を詠った「ここに地果て、海始まる」の一節で知られる『ウズ・ルジアダス』は、彼がマカオ滞在中に記したものだといわれている。

隣がカーザ庭園で、アヘン取引に関わったイギリス東インド会社のオフィスがあったところでもある。1720年代のイギリスは、中国からのお茶の輸入超過で、銀の流出が増大。その打開策として目をつけたのが、アヘン取引だったのだ。

庭園に隣接するプロテスタント墓地にも立ち寄っておきたい。19世紀初頭、プロテスタントを葬るための墓地がなかったことを憂いたイギリス東インド会社が、土地を購入して墓地を造ったのが始まりとされている。中国でプロテスタントの布教に務めた宣教師ロバート・モリソン一家の墓もある。

墓地の南にある真っ赤な三巴門土地廟(サンパームントゥティミュウ)は、300年前の清朝初期にまで歴史を遡る由緒ある廟とあって、小さいながらも道すがら手を合わせる人も多い。その先、同安街を右折すれば包公廟(パウコンミュウ)だ。中国の時代劇ではおなじみの宋代の名臣・包公を祀った道教寺院である。すぐ隣に、三国時代の名医として知られる華佗や医薬を司る神様・炎帝などの化身ともいわれる醫霊大帝を祀った醫霊廟(イーレンミュウ)もある。

下町の風情が漂う義字街と飛能

この西側にそびえるビルは、香港で西洋医学を学んだ孫文が最初に眼科医として仕事を始めた鏡湖醫院で、孫文像もある。孫文が働いていた頃は、まだ木造の小さな中国式建物だった。同病院内には鏡湖歴史記念館(土曜午後のみ一般公開)もあり、孫文にまつわる資料を見学できる。鏡湖馬路を渡ったところにある黄色い建物は消防博物館。1950年代のイギリス製の消防車2台や、「水車」と記された中国式の手動ポンプ車など歴代の消防車は見逃せない。

さらに300mほど北にある蓮溪廟(リンケイミュウ)は、200年もの歴史を誇るという道教寺院で、演劇の神様・華光や、航海の神様・北帝、お金の神様・財帛、学問の神様・文昌が祀られている。その先、中国式庭園の新橋花園手前には、マカオ最古の映画館・永樂戯院も。

ここからは多少大回りになるが、屋台がひしめく義字街や飛能便度街をたどり、下町の賑わいを感じ取りながらラウンドアバウト方式のロータリー・三盞燈を目指したい。

最後は、飛能便度街をさらに東へと歩んで葉挺邸へ。1927年の南昌起義を主導して共産党の躍進に貢献した軍人・葉挺が暮らしていた邸宅跡だ。2階建ての西洋式住宅で、家具や調度品がそのまま展示されている。20世紀中ごろのマカオの暮らしぶりを知るにはまたとない機会である。

江戸時代に日本人が住んでいた証し

本人キリスト教徒たちが住んでいたといわれる豆醤里の道標

本人キリスト教徒たちが住んでいたといわれる豆醤里の道標

イエズス会宣教師のフランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えたのは、1549年のこと。以後、大村純忠をはじめ、有馬晴信、大友宗麟、高山右近、小西行長などが次々と洗礼を受けている。しかし、異国の宗教が広まることに強い警戒感を抱いた豊臣秀吉が1587年にバテレン追放令を、江戸幕府は1612年に禁教令を発布している。

この法令によって日本を追われた日本人キリスト教徒たちが向かったのが、マカオやマニラであった。マカオで彼らが住んでいたのは、聖ポール天主堂のすぐ近くであったといわれている。その証しともいえるのが、豆醤里(タウンチェーンレイ)と書かれたアズレージョの道標なのである。豆醤とは味噌のこと。異国の地においても、懐かしい郷土の味を忘れられなかった日本人の思いがしみ込んだような通り名である。

 

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